個人倫理の究極を目指す…デーケン、水谷両氏

日本経営倫理士協会 専務理事 千賀 瑛一

◆人間のあり方を問いかける

 アルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授)が、9月6日肺炎のため亡くなった。88歳だった。
 1932年ドイツ生まれ。「死生学」を提唱し、幅広い市民活動の輪を広げた功績は有名だ。
  一方、経営倫理学を掲げて、その教育普及に取り組んだ故水谷雅一氏(日本経営倫理学会・初代会長)の実績を評価する声も大きい。実は、両氏にはその理論の基本、時代背景、活動の影響力など共通するものがある。改めて、これらの点を検証していくと、両氏の理念、考え方の根源が「人間のあり方」という基本テーマを常に、問いかけていることに気付く。

アルフォンス・デーケン 氏

 デーケン氏は1959年、イエズス会の派遣により来日したカトリック司祭で、すぐに「死生学」を提唱したわけではない。上智大学に奉職して間もない1975年に「死の哲学」「人間学」などの講義を担当したという。(同氏は、アメリカ・フォーダム大学大学院で哲学博士の学位を修得している)。1960年代後半から欧米中心にホスピス運動が起こり、世界的に大きな関心を持たれるようになった。
 かつては、死に直結する病いとしてのガンへの恐怖は根強く、「生と死」という広い理念の中で「死生学」への関心が高まっていった。
 インフォームド・コンセント、カルテ開示、ターミナル・ケア(終末期医療)の充実、ホスピスの普及――などが社会問題として注目され始めた時でもあった。

◆「死」をタブー視せず、いのちの尊さ訴える

 デーケン氏の問いかけの重要な第一歩は、「死をタブー視しない」ことから始まっている。
 死にゆく人の心…、死別の悲嘆…に向き合って「デス・エデュケーション」による安らぎの場を求めることを積極的に訴えた。日常の話題、身近なテーマをとり上げ、解りやすい講演だった。特にデーケン流のユーモアが説話の各所にちりばめられ、講師、受講者が一体となり、学びの場を盛り上げていたのも特筆すべきだ。会場には独特の親しみやすさ、明るさがあった。

 デーケン氏の大きな功績とされるのは、「死生学」を市民活動として社会に根づかせたことだ。
 ガンなどによって死期が迫っている人たち、その家族らへの呼びかけは、次第にその輪が広がり「生と死を考える会」へと発展していった。デーケン氏は同会の全国協議会名誉会長なども務めたが、「死とどう向き合うか」を主テーマに日本各地で講演活動を続けた。「人間の生」を中心に考え、アカデミックな領域を超えた理論は共感を呼び、全国的な運動に発展していった。

◆組織倫理と個人倫理は…

 日本経営倫理学会を創設した故水谷雅一氏が、その基礎理論として「組織倫理と個人倫理は〝車の両輪〟である」と提唱している。さらに過労死などを例題にとり上げ、組織のための個人犠牲を厳しく戒めている。
 経営倫理学は1970年代、アメリカで誕生し、水谷氏中心に日本国内で高等教育に導入され、さらに産業界へも理論・実践両面での研究活動が拡がっていった。
 現在、企業改革のテンポも早くなるものの、経営倫理の大切さがいま改めて再認識されているのは、理論の根源に人間性重視の思想があるからだ。 デーケン、水谷両氏が哲学、倫理への思い入れが深く、常にヒューマンな理念が根底にあったという点で共通している。

 水谷氏は、日本経営倫理学会会長に在任中、デーケン氏との対談を実現させる構想があり、学会誌への掲載を企画したことがあった。デーケン氏の思想と行動をかなり気にかけていた。
 水谷氏は、2003年11月から2009年2月まで30回にわたりBERCニュース(経営倫理実践研究センター発行)に、コラム「回顧随想」を執筆している。第30号のテーマ「メメント・モリ」の文中に以下の記述がある。


日本でも死生学というジャンルがあり、研究グループが協議会を編成している。ダーケン先生(原文のママ)=上智大名誉教授が先導し、生と死の問題を専門的に考究しているが、その成果を期待し発展を祈っている。生と死や倫理と宗教の問題がより一層ポピュラーに語られ、企業人のみならず市民の間でも常に話し合えるようになることを祈っている。


 同稿のタイトル「メメント・モリ」は、哲学系の論文では時々使われるが、水谷氏は「死は何時やってくるか解らないからこそ個人倫理を遵守しなければならない」と強調している。

◆最後は「ホスピス病棟での死」を強く希望

  故 水谷雅一 氏

 水谷氏は晩年、日本経営倫理学会名誉会長、経営倫理実践研究センター会長、日本経営倫理士協会理事長を兼務、重責を担っていた。2009年3月19日、80才で亡くなったが、最後のほぼ1年間は大腸ガンを患い、大変苦しんでいた。亡くなる10日ほど前に「ホスピス病棟へ入りたい」と言い出され、これは強い希望だった。人生の最後の場として選択したホスピスへのこだわりだった。御家族と筆者で、ホスピス病棟への早期入院に動いたが、東京都内で各病棟のベッドは空いておらず、最終的に横浜市にある、みなと赤十字病院の緩和ケア重点型ホスピスに入院。主治医からは「1週間以内…」と告知され、入院3日目に逝去された。横浜・本牧港に近く、時々汽笛が聞こえてくる静かな病室だった。