総合企画委員・経営倫理士 佐藤 直人
「法は世につれ、世は法につれ」。これは経営倫理士取得講座での若狭勝弁護士の講義中の言葉です。近年のパワーハラスメント規制やあおり運転規制などに関する法律施行を見聞きするとこの言葉が浮かんできます。
コロナ禍で外出もままならないことから「流人道中記 上下(浅田次郎著:中央公論新社)」=写真下=を一気に読みました。この「流人道中記」は読売新聞に連載されていて、出版されたらぜひとも読もうと考えていた1冊です。時代と社会体制は異なるのですが、法と社会を取り巻くコンプライアンス(倫理、道徳など)、礼と法の位置づけについて考えさせられました。

❖「流人道中記」に引き込まれ
時は万延元年(1860年)。旗本・青山玄蕃に奉行所が青山家の安堵と引き換えに切腹を言い渡す。だがそれを拒否したことから、蝦夷松前藩への流人判決が下った。命の引き換えに青山家はお取りつぶしである。押送人に選ばれた19歳の見習い与力・石川乙次郎と共に奥州街道を北へ進む約1か月の道中の出来事です。
道中で起きる出来事や対応、青山玄蕃と石川乙次郎の生い立ち、青山玄蕃の犯したとする罪(冤罪)が明らかになり、それらに対する心情の移り変わりが、浅田次郎の絶妙の語り口により引き込まれます。

道中の旅籠で記す乙次郎の15歳の妻(きぬさん)宛の手紙でその心情がまとめられていきます。例えば「礼」については、玄蕃いわく「いいかえ、乙さん。孔夫子の生きた昔には法がなかったのさ。礼っていうのは、そうした結構な時代に、ひとりひとりがみずからを律した徳目のことだ。人間が堕落して礼が廃れたから、御法ができたんだぜ。」。それを受けて乙次郎は「本来はおのおのが心得ねばならない当然の道徳こそが礼。功利や我欲によって礼を失ったゆえに、法という規範が必要とされるようになった。すなわち、僕らが全能と信ずる法は、人間の堕落の所産に過ぎぬのです。」と記しています。
現実と御法の狭間についても「宿村送りというお定めは、人として当然なすべき思いやりや憐れみといった『礼』が廃れてしまったから、天下の御法として規定したのです。しかし法には心がないので、飢饉が見舞うに違いない村へと、病人を送り返してしまいます。現実と御法との、いかんともしがたい断絶です。」。そして「今の世の中は、御法にさえ触れなければ悪行ではないとする風潮がありますね。でも、それは真理ではない。人間の堕落によって廃れた『礼』を、補うためやむなく求められた規範が『法』であるなら、今日でも『礼』は『法』の優位にあらねばならないはずです。」とも記しています。
江戸時代末期の武家を取り巻く制度疲労と命の大切さ、人間は本来どうあるべきかを大いに感じざるを得ませんでした。
❖自ら律していかなければならない領域
さて、コンプライアンスは単なる「法令遵守」ではなく、広義の意味で「企業倫理」と解されることに異論はないでしょう。したがって、企業は不祥事に対しては法的責任を負うことから法によって裁かれるのはもちろんのこと、企業の社会的・道義的責任も問われます。
しかし、現実に裁かれるのは法によってであり、社会的・道義的責任を果たしていなかったことに関して、何をもって裁いたり、再発防止を行うかは明確ではありません。不買運動が起きるとか、株価が下がるとか、人材の流出が起こるとか、人材採用に支障が出るとか、SNSであることないことを発信されるとかはあるでしょう。その意味で、不祥事を起こした企業は、法令違反以外の企業倫理の領域を“自ら律して”いかなければなりません。
石川乙次郎の言葉に「青山玄蕃は無法者にはちがいないが、もしや無礼者ではないのではないか。そう思えば、これまでの出来事のいちいちが腑に落ちるのです。」とあります。皆さんは「礼」と「法」をどのように受け取るでしょうか。